学べる!針の歴史

針は、いつ頃この世に生まれ、
どのように世の中に
広まってきたのでしょうか?
世界の歴史からたどってみましょう。

世界文明

世界一古い針は、ロシア・アルタイ山脈のデニソワ洞窟で発見されました。この針には糸を通す針穴も開いており、放射性炭素年代測定によって5万年前に作られたことが判明しました。針の長さは7.6㎝で鳥の骨から作られています。
この針は、極寒のシベリアで毛皮を縫って衣服を作ることに使われていたと思われます。針の形状も現在私たちが使っている針と全く変わっておりません。

10世紀(901~1000)頃にはヨーロッパで針金が発明され、鉄片を鍛造するのではなく針金を切断し針が作られるようになりました。現在のような鋼製のものは中国で生まれ、イスラム諸国を通じてヨーロッパへ伝わり、朝鮮を通じて我が国日本に伝わったと言われています。

5万年前の世界一古い針は
ロシアのデニソワ洞窟で発見
5万年前の世界一古い針はロシアのデニソワ洞窟で発明

日本文明

日本では長野県にある栃原岩陰遺跡(とちばらいわかげいせき)から約1万年前縄文時代早期の鹿角製の針が発見されています。針穴が付いた大小さまざまな動物の骨針が見つかっており、細い骨を削って鋭くとがらせ、石器で小さな穴をあけ針にし、動物の腱をなめして糸にし、毛皮を縫い合わせて、衣服を作り上げました。

法隆寺宝物館には聖徳太子(574~622年)が仏像の袈裟を作るときに用いたとされる撥鏤(象牙を紅などで染め、表面に彫刻を施した物)の針筒(ばちるのはりづつ)があります。その中には針は残っていませんでしたが、正倉院の宝物殿には銀の針が3本、銅の針が1本、鉄の針が3本、計7本が展示してあります。
正倉院の宝物のほとんどは奈良時代(710~794年)の物です。7本の針は外国から入ったものか、我が国で製作されたものか未だ判明しておりません。

平安時代には、播磨(兵庫県)の針が地方的な特産として京で売られ、室町時代から京の姉小路で、針を専門的に生産されていたと言われています。この頃から大量に生産されるようになったようです。

江戸時代末期、国内の主な産地は京都・浜坂・大阪・氷見・広島でした。なかでも京都は針の産地として古く、「京針」「みすや針」の名は日本の針の代表とも言えるものでした。明治時代に入ってからも針作りは昔の手工業のままで、生産されていましたが、洋服が広まり始めるとヨーロッパから輸入されるメリケン針が洋服の仕立てに使われるようになりました。そして、明治26年京都にて「日本製針株式会社」が設立され、ドイツから先頭機・鑽孔機(さんこうき)などを輸入して針作りの機械化が始まりました。

江戸時代の針作り2
江戸時代の針作り~先頭~

日本では長野県にある栃原岩陰遺跡(とちばらいわかげいせき)から約1万年前縄文時代早期の鹿角製の針が発見されています。針穴が付いた大小さまざまな動物の骨針が見つかっており、細い骨を削って鋭くとがらせ、石器で小さな穴をあけ針にし、動物の腱をなめして糸にし、毛皮を縫い合わせて、衣服を作り上げました。

江戸時代の針作り2

江戸時代末期、国内の主な産地は京都・浜坂・大阪・氷見・広島でした。なかでも京都は針の産地として古く、「京針」「みすや針」の名は日本の針の代表とも言えるものでした。明治時代に入ってからも針作りは昔の手工業のままで、生産されていましたが、洋服が広まり始めるとヨーロッパから輸入されるメリケン針が洋服の仕立てに使われるようになりました。そして、明治26年京都にて「日本製針株式会社」が設立され、ドイツから先頭機・鑽孔機(さんこうき)などを輸入して針作りの機械化が始まりました。

法隆寺宝物館には聖徳太子(574~622年)が仏像の袈裟を作るときに用いたとされる撥鏤(象牙を紅などで染め、表面に彫刻を施した物)の針筒(ばちるのはりづつ)があります。その中には針は残っていませんでしたが、正倉院の宝物殿には銀の針が3本、銅の針が1本、鉄の針が3本、計7本が展示してあります。
正倉院の宝物のほとんどは奈良時代(710~794年)の物です。7本の針は外国から入ったものか、我が国で製作されたものか未だ判明しておりません。

平安時代には、播磨(兵庫県)の針が地方的な特産として京で売られ、室町時代から京の姉小路で、針を専門的に生産されていたと言われています。この頃から大量に生産されるようになったようです。

江戸時代の針作り~先頭~

広島針

広島針の歴史は、江戸時代初期(約四百年前)、広島藩主浅野候が長崎から針職人「木屋治左衛門」を連れてきたことから始まります。治左衛門は弟子をとり、藩の下級武士たちの生活の糧として針作りを修得させたところから、針作りが行われるようになりました。

当時、中国山地ではたたら製鉄(古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送り込むのに使われる鞴(ふいご)が「たたら」と呼ばれていたために付けられた名称である。)が盛んになり、そこで生まれた鉄が広島城下に流れてきたため、針作りも広島の地に根付いていきます。

広島針の工業生産の始まりは1896年(明治29年)中田和一郎氏が京都伏見の鉄工所からドイツ製の製針機械の一部を広島に持ち帰ったのが始まりです。
その後1900年(明治33年)には、さらにドイツ製の機械を購入し手工業的製針から電力を利用した動力式機械製針へ移行しました。当時、メリケン針はヨーロッパ製が主流でしたが1906年(明治39年)初めてメリケン針の生産が始まっています。

広島針の歴史は、江戸時代初期(約四百年前)、広島藩主浅野候が長崎から針職人「木屋治左衛門」を連れてきたことから始まります。治左衛門は弟子をとり、藩の下級武士たちの生活の糧として針作りを修得させたところから、針作りが行われるようになりました。

当時、中国山地ではたたら製鉄(古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送り込むのに使われる鞴(ふいご)が「たたら」と呼ばれていたために付けられた名称である。)が盛んになり、そこで生まれた鉄が広島城下に流れてきたため、針作りも広島の地に根付いていきます。

広島針の工業生産の始まりは1896年(明治29年)中田和一郎氏が京都伏見の鉄工所からドイツ製の製針機械の一部を広島に持ち帰ったのが始まりです。
その後1900年(明治33年)には、さらにドイツ製の機械を購入し手工業的製針から電力を利用した動力式機械製針へ移行しました。当時、メリケン針はヨーロッパ製が主流でしたが1906年(明治39年)初めてメリケン針の生産が始まっています。

優れた技術から生まれる手縫針

手縫針は小さな道具ですが、金属加工のほとんどの基礎技術を必要としています。切断、切削、プレス、ポンチ、熱処理、研磨、メッキ等の技術が全て必要とされるため、各工程において専用の機械が必要で、市販されている機械はありません。
針製造に携わる人々が、知恵と努力と情熱で開発した独自の機械です。様々な技術が複合する針の生産機械は、明治初期、広島の近代工業化への大きな貢献を果たしました。
当時の人々によって、改良、改善が加えられ、今日では日本の中で広島しか針の生産県はありません。しかし、これは製針業界単独で成し得たものではなく、周りにそれを支える環境があったからだと私たちは考えています。
まさに業界の先人の努力や広島の機械工業に特化した産業構造のお陰で「広島針」は生き続けているのです。

先頭研磨

鼓形状の尖頭研磨技術と独自の輪車送り方式
鼓形状の尖頭研磨技術と独自の輪車送り方式

穴あけ加工

独自の多数工程同時プレス機と独自の螺旋送り方式
独自の多数工程同時プレス機と独自の螺旋送り方式